2007-05-20

「著作権とは何か」を読んで

【感想】
今回「著作権とは何か」を読んで、大きな枠組みがわかってよかったです。
まず著作権が現在の世の中でなぜ重要なトピックとなっているのかを考えてみました。
それは、情報化社会が急速に発展して、インターネット、パソコンなどで
著作物を作ることも利用することも簡単になったためだと思います。
かつては芸術家や出版社、映画会社などの一部の人だけの問題だったのではないでしょうか。
誰もが著作物を作り,利用できる時代だからこそ考えるべきことなのだと思います。

【改善すべきまたは取り入れるべきだと思うこと】
現在の問題に柔軟に対応していくには法の変更が必要だと思います。
そもそも著作物は視覚や聴覚で知覚されることで、
そのものの価値が発揮されるのではないか思います。
しかし、「知覚する行為」を権利として認めても美術品など
権利行使を行うのは難しいものもあります。
よって、知覚以前のコピーなどの権利を認めているといえます。
では、デジタル化されているものはどうでしょうか。
情報へのアクセスを制限する事で「知覚する行為」そのものを
コントロールすれば、コピーの不正がなくなると思います。
ですが、これはデジタルのものにしか通用しません。
このように、デジタルである著作物、出版物、美術品など
それぞれのパターンに応じて著作権法は変更されるべきだとも思います。

【気になった点、疑問点】
ある作品がオリジナル作品を模倣したとしても芸術的に上回っていた時、
それは著作権を違反したと言われてしまうのかということです。
著作権が芸術文化活動が活発に行われるために存在しているのならば、
この場合は許されるべきなのではないでしょうか。
ピカソはいろいろな画家に会っては、いいと思った作品を分析し、模倣し、
それより優れたオリジナルへと昇華させていきました。
“Good Artists copy, Great Artists steal”
(=優れたアーティストは模倣するだけだが、偉大な芸術家は盗む)と言っています。
彼の才能によって、そのパクリともいえる作品は元の作品を越え、
むしろ美術の世界でスタンダードとなっています。
著作権によって守られるべき部分も必要だとは思いますが、
より素晴らしい作品は世の中には出るべきであるし、
芸術の世界は優れているものが勝る世界なのだから、
何もかも著作権法で縛り上げてしまうのはよくないと思います。
しかし、芸術における線引きはとても難しいとも思います。
どのように線引きしたらよいのかまだ考え付きません。
みなさんいい考えはありますか?

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

「芸術における著作権の線引きについて」考えました。
芸術作品は、結果的に「偉大な作品」として記録されます。情報化社会のなかで我々は、「記録」された「偉大な結果」をあらゆるメディアによる既存の情報として認知してしまいます。自分の知らないところで生まれた批判や評判、評価を鵜呑みにし、芸術作品に対して現実味の伴わない独善的な判断が横行してしまいがちです。芸術から受けた実感は作者とその作品を前にした者にしか得られないとはずです。
偉大な芸術家は、芸術が人間にとって、特にその精神育成に重要な役割を担っていることを分かっているはずです。同時に活力とビジネスにも当然関わっているということもわかっています。利益、損得、情報、競争、権利が存在するその社会そのものの中で芸術家は本物を作り上げていきます。著作権による線引きで縛られてしまう芸術家は本物になりきれていないのです。
つまり、線引きする側もされる側も、人間として、社会人としての価値観や判断力、審美眼を芸術作品と直接対話しながら磨き、人間と芸術の関わり方、あり方について深く考えた上で、芸術における著作権とは何かを議論すべきであると考えます。
芸術を「ジャンル」にしたて、あたかも他の世界のもの、手の届かないもののように扱い、その反面著作権の名のもとに安易に線引きしていまうのは、ナンセンスだと思います。線引きする前に芸術と自分自身を含めた人間との密接な繋がりを議論すべきだと考えます。
既存の社会の構造を結果や情報として知覚する生活を送っていると、物事の成り立ちを考えなくなってしまいがちです。構造は生命の成り立ちから生まれます。社会構造は、人間そのものです。
新しいものが生まれると古いものを捨てたり、変更してしまいます。しかし、新しいものを生む者は古いものの構造、成り立ちを熟慮し、理解します。
偉大な作品はこのように生まれます。人間の研究と自身と向き合うことでオリジナルが生まれるのです。本来パクリなのかどうかという次元にはないのです。
芸術の世界(どの世界でもそうですが)は優れているものが勝る世界です。その世界を作っているのは我々自身でもあります。ですから優れたものが出来上がった成り立ちを理解し、研究する努力をすべきです。
もしくは、作品と直接対話し自分にとって精神的に重要と思う作品と少しでも多く出会い、考えるべきです。「線引き」は自分自身に帰ってきます。そこにできるだけ多くの人が気づき、慎重に、かつ必要な線引きをしていくことが重要だと考えます。どうでしょう。
内田さんの投稿、率直で考え深いです。ありがとうございます。
TK

匿名 さんのコメント...

TKさん

コメント有難うございます。もし読んで下さっているとしたらお返事が遅れた事本当に申し訳ありません。まさか自分の投稿にコメントがついているとは思わず、チェックしておりませんでした。この反省はこれから活かしていきたいと思います。

確かに芸術からの実感は実際のモノから、その“体験”をした人にしか得られないものですよね。納得します。芸術家、芸術作品に対する断定的な説明は多く、自然とレーベリングされるのが普通の事になっていると思います。

「著作権による線引きで縛られてしまう芸術家は本物になりきれていないのです。」は全くそうだ感じますが、同時にこの世に本物の芸術家はどれくらいいるのでしょうか。少ないだろうと私は考えてしまいます。

「線引きする側もされる側も、人間として、社会人としての価値観や判断力、審美眼を芸術作品と直接対話しながら磨き、人間と芸術の関わり方、あり方について深く考えた上で、芸術における著作権とは何かを議論すべきである」というご意見ですが、とても素晴らしいと思います。しかし、そのような豊かな人が育つ(?)にはどうしたらよいのだろうと私は悩んでしまいます。自然にそれを習得するにはもともとの感性が大切なような気がしてしまいます。

確かに物事の成り立ちを考えなくなってしまいがちです。私達は物事を一面的に捉えがちです。生活していてもそうですが、便利だからという理由だけで、使用し、その使用しているものに対する考えは一切無い場合がほとんどだと思います。

「社会構造は、人間そのものです。」というご意見からは個々の人間という要素が社会という組織そのものということでしょうか??

「新しいものが生まれると古いものを捨てたり、変更してしまいます。しかし、新しいものを生む者は古いものの構造、成り立ちを熟慮し、理解します。偉大な作品はこのように生まれます。」というご意見を読むと自然科学の歴史が自然と思い浮かびます。パラダイムの転換のようなものですね。


「優れたものが出来上がった成り立ちを理解し、研究する努力をする」というのはとても大変な事で、「作品と直接対話し自分にとって精神的に重要と思う作品と少しでも多く出会い、考える」という方が私には試しやすく、継続可能性が高いように感じます。豊かに、慎重な「線引き」出来る人になりたいと思います。また、他の世の中の人にもそれを願います。

貴重なご意見有難うございます。深く考えさせられました。