2007-05-25

「思考の枠を規定するグーグル」

「思考の枠を規定するグーグル」

・感想

(今回の感想は自分の思ったこと感じたことを自問していって書いてあるので支離滅裂な箇所と極端すぎるところが多いので訳が分からないと思うのですが、自分の思考回路(?)を辿ってみました)

 まず、これを選んだのは私の中で「答え」が一向に見つからないコラムだと感じたからだ。グーグルの悪い面に対して「どうすればいいのか」が分からない。だから、試行錯誤してみようと思った。

 「思考の枠」がグーグルによって規定されることは、コラムにも書いてあるようにグーグルが「洗脳以上に巧妙で強力」な力を内包しているからだ。この力が最大限に発揮された極端な場合を考えてみると、戦争や独裁政治にまでつながるのではないかと思った。よって、グーグルの悪い面があることを納得した。

 ではなぜ悪いのか考えてみよう。思考の枠が規定されるということは、表現の自由に何かしらつながってくると思うが、今まで表現の自由は本当に実現していたのかという問題を考える必要があると思う。NCで挙げられている「2ちゃんねる」に関して言えば、匿名で自由に発言、時には誹謗中傷するこは表現の自由が認められているから許していいことなのか?先週の「著作権」に関して言えば、バランスを考慮すると表現の自由は実現していないのではないか?と考えてしまう。

 そもそも、さっきから言っている「表現の自由」の定義は何なのかを考える必要も出てくる。自分の表現したいことが全て表せることが表現の自由なのか、ある程度の倫理や規範の範疇で表現することが自由なのかとなる。私は後者の意味においての「自由」だと思うが。

 「思考の枠」について話を戻すして、検索を提供する企業(グーグル)と、それを利用する個人と、それを管理しようとする国(三権?)の三者の関係について考えてみた。企業は個人にサービスを提供し、個人はそのサービスを利用することで企業の利益につながる。企業は国に保護されていて(運営することが認められているといった根本的なところで)国は企業が運営をすることで国力につながる。そして、個人は国に信託をしていて、国はその信託で成り立っている。この三角関係は全てが全てを補完しあっていて、切り離せない。そこで私がたどり着いたのは個人一人一人の思考の枠付けをしているのは個人それ自身ではないのかということだ。国は国民が信託しなければ成り立たないし、企業も国民の中の誰かが運営している。ただ、こんなことを言い出したら極論すぎるし、実際は一部の人間がそのシステムを作っている訳で、じゃあ個人がどうにかできるかと言ったら大掛かりになるだろう。

 そのとき、検索エンジンとかネットとかが国、個人、企業がよりアナログにある壁を取り除いてくれるプラットフォームとなることが大切なのではないかと感じた。それにはデジタルデバイドといった根本的な問題もあると思うが、差を埋めるの機能することもできると思う。

 次に考えたいのは、アナログにある「壁」を取り除く事と「差」を埋めることはどう違い、どう同じなのかということだ。私は「壁」を取り除くのは良いことだと思うが、「差」を埋めるのは決して良いこととは言い切れないと思う。金先生がおっしゃったアイデンティティーは自分と他者を差異化することで認識できるのだから、差が無いことは自分の存在意義を見失うことにもつながりうるのではないか?そうするとネットが先に述べた三者の関係を深化するためのプラットフォームではなく、単一の考えしかできない個人を産むプラットフォームになってしまうのでは?ということはつまり、思考の枠が規定されてしまうことになる。

 ここで、また振り出しにもどってしまった。差とか壁についてはどこまでが平等で、何が平等なのかを見極める力が必要だと思う。人それぞれものの見方や考え方は違うのだから。


 ここまで考えて振り出しに戻ってしまったので、最初に「答え」が見つからないと述べた。



議論したい点



上に書いたように、議論したい点ではグーグルそれ自体の話とは離れるが、

  • 「答え」が見つからない問題に「答え」はあるのか?

  • その問題を解くためにするといいことは?(解決するための秘策はあるのか?あるなら何か?)

である。


また、一応「思考の枠を規定するグーグル」に関した議論点を挙げておくと

  • 思考の枠は今まで規定されていなかったのか?このケースだけで「思考の枠」が規定されているのか?

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